奇祭パーントゥ~泥を塗って無病息災!?宮古島に伝わる来訪神について~

Culture

以前、宮古島を訪れた際、島の歴史を学ぶべく「宮古島市総合博物館」に足を運んだ。そこには、宮古島の動植物の紹介から、代々伝わる様々な伝統が学べる展示があり、この島には縁もゆかりもない私にとっては、いずれも大変面白く見ることが出来た。その中で特に、私の心を掴んだものがあった。

館内で屹立する二体の等身大の人形。黒いお面を持ち、前身は植物の葉のような物で覆われている。周囲の展示物の中でもあからさまに異質で目立っていた。案内板を見てみると、これは「パーントゥ」という、宮古島に古くから伝わる伝統行事における、神様であるようだった。列島の方ではあまりお目にかけることが出来ないような、どこか熱帯諸国の情緒を感じさせる風貌に、私は強く惹かれ、今回ブログ執筆をするに至った。

パーントゥとは

パーントゥは、沖縄県宮古島市の宮古島で行われる厄払いの伝統行事である。仮面をつけた来訪神パーントゥが集落を回って厄をはらう。平良島尻と上野野原の2地区で行われているが、両地区で内容は異なっている。1982年に両地区の行事が「宮古のパーントゥ」として選択無形民俗文化財に選択され、1993年に「宮古島のパーントゥ」として重要無形民俗文化財に指定されている。また、2016年には「来訪神:仮面・仮装の神々」のひとつとして国連教育科学文化機関(UNESCO)の無形文化遺産への登録が提案され、審査が先送りされたものの、2017年に再提案されて、2018年11月29日に登録が決定している。またその語源であるが、「パーントゥ」は、お化けや鬼神を意味する。宮古島の歴史について書かれた『宮古島庶民史』(稲村賢敷、1948年)には、「パーン(食む)+ピトゥ(人)」が訛化した言葉であるという説が述べられている。起源としては数百年以上も前に、島尻地区北部の海にクバ(枇榔)の葉に包まれた仮面が漂着したことが始まりのようである。その仮面を拾った若者が、泥を体に塗って来訪神になった、という神話が元になっているらしい。

平良地区島尻のパーントゥ・サトゥプナハ

島尻では、毎年、旧暦3月末から4月初、旧暦5月末から6月初、旧暦9月吉日)の3回、サトゥプナハ(里願い)が行われ、パーントゥはこのうち3回目に現れる。このため、3回目のサトゥプナハはパーントゥ・サトゥプナハ、パーントゥ・プナハと呼ばれる。保持団体は島尻自治会。ここのパーントゥは親(ウヤ)パーントゥ、中(ナカ)パーントゥ、子(フファ)パーントゥの3体の来訪神で、選ばれた字島尻地区の青年が扮する。パーントゥとなった3人は、夕刻、仮面を着けシイノキカズラ(方言名:キャーン)という蔓草をまとい、「ンマリガー」(産まれ泉)と呼ばれる井戸の底に溜まった泥を全身に塗って現れる。「ンマリガー」は、宮島小学校(2017年閉校)の東側にあり、かつて産湯に用いられたほか、死者を清める水としても使われたという。パーントゥは、元島(集落発祥の地)にあるウパッタヌシバラという拝所で5人のミズマイ(神女)に祈願し、その後、集落を回って厄払いをする。厄払いは誰彼かまわず人や家屋に泥を塗りつけて回るというもので、泥を塗ると悪霊を連れ去るとされている。この「ンマリガー」から採取する泥は強烈な臭気を放ち、塗られたら数日はその臭いが取れない。かつては集落の厄介者を引きずり回すことも多く行われ、共同体の秩序維持にも一役買っていたとされる。鍵のかかっていない家にパーントゥが勝手に上がり込むことも多く(当然家の中は泥だらけになる)、特に新築の家や事務所には厄払いとして必ず訪れることになっている。また島にある集落の氏神を祀る聖域「ムトゥ」では、パーントゥが乱入するとお神酒を振る舞うしきたりになっており、そのときばかりはパーントゥも振る舞われた泡盛を口にし、一時的に大人しくなる。

上野地区野原のパーントゥ

旧暦12月最後の丑(うし)の日に行われる厄払いである。保持団体は野原部落会。地元ではサティパロウ、サティパライ(里祓い、さとばらい)ともいう。成年女性と少年のみが参加し、成年男性や少女は参加しない。少年のひとりがパーントゥの面を着けて「ニーマガー」と呼ばれる井戸を出発し、その後に他の少年達、2列に並んだ婦人達が続いて行列する。少年のうち2名がほら貝を吹き、1名が小太鼓を打つ。婦人はクロツグ(方言名:マーニ)やセンニンソウ(方言名:タドゥナイ)で作った草冠を頭に被り、草帯を腰に巻いて、両手に悪霊祓いの意味があるヤブニッケイ(方言名:ツッザギー)の枝を持つ。行列はまず集落の東の大御嶽前で礼拝した後、「ホーイホーイ」と唱えながら集落内を行進して厄払いをする。そして、集落の南西の端にあるムスルンミという場所に到着すると、草冠、草帯や小枝を外し、巻き踊りをして行事は終了する。インドネシアやミクロネシアでも似た祭りがあるとされる。

海外からの起源説

パーントゥは逃げ惑う人々を追いかけながら、集落内に点在する拝所の「ムトゥ」(普段仮面が保管されている家)を巡礼する。彼らが祈願する様子は公開されておらず、タブーの多い南の島特有の神秘性は保たれているようだ。そもそも「タブー」という言葉はトンガ語が語源ともいわれ、18世紀末にイギリスの探検家キャプテン・クックがポリネシアの習俗を紹介したことで広まったそうだが、宮古島のパーントゥや悪石島のボゼなどの仮面祭祀も、南方の由来を思わせるものである。また、「混ぜる」を意味する言葉が同じ「チャンプル(Campur)」であるなど、沖縄の方言はインドネシア語との共通性が指摘されているが、インドネシアでは幽霊や妖怪を「ハントゥ(Hantu)」と呼ぶことも、パーントゥとの繋がりを感じさせる。しかもこのハントゥ、神を意味する「トゥハン(Tuhan)」をひっくり返したもので、神様と魔物の要素が混在するパーントゥの立ち位置にも似ていて、なかなか興味深い。

お祭りの日

それでは、実際のお祭りの日の様子は、どのようなものなのだろうか。オカルト愛好家である影市マオ氏のレポートを下記に抜粋する。

 2017年10月25日と26日の2日間にわたり、沖縄県宮古島市の島尻集落で、“日本一恐ろしい祭り”とも呼ばれる「パーントゥ・プナハ」が開催された。全身に黒い泥をまとった来訪神「パーントゥ」3者が、だれかれ構わず人々を追い回しては容赦なく泥を塗りつけるという、なんとも衝撃的な伝統行事である。<中略>台風接近に伴う生暖かい風に吹かれ、あたりに嵐の前の静けさが漂う中、今か今かとしばらく待ちわびていると、午後5時過ぎ、ようやくンマリガーから3者のパーントゥが出現。それぞれ「ウヤ(親)」「ナカ(中)」「ファ(子)」という親子の仮面神で編成されており、一本道の彼方からこちらに向かってズンズン歩いてくる。悪霊を退けるための厄払いだが、やはりその泥まみれの黒い姿はむしろ悪霊そのもの。毎年選ばれた青年会の若者が扮しているそうだが、そんなことはまるで感じさせない異様な迫力を放っている。観衆が息を呑んで徐々に接近する神々を見守っていると、やがて一番身を乗りだしていた某テレビ局の撮影スタッフが、まずは見せしめとばかりに、たっぷりと泥をお見舞いされた。それを皮切りに、3者は入り乱れて襲撃を開始。たちまち周囲は悲鳴と笑い声に包まれ、かくして平穏な集落は今年も惨劇の舞台と化した。<中略>

午後6時ごろになると、学校や仕事を終えた人々も祭りに加わり、熱狂はピークに達する。先ほどの牧歌的な雰囲気が嘘のように、島尻購買店周辺は泥まみれの群集で溢れ返り、さながらゾンビ映画のような光景が広がった。やがて日が落ちると、集落に真の恐怖が訪れる。このあたりは街灯が少ないため、パーントゥは暗闇にすっかり溶け込み、まさに神出鬼没のハードモードとなるのだ。人々は近くで動くものや物音を恐れ、疑心暗鬼に陥っていく。ウロウロしていたら、私も何度かパーントゥと間違えられた(失敬な)。昔は今以上に明かりがなく、見物人も少なかったはずだから、パーントゥの恐ろしさたるや本当に鬼気迫るものだったと思う。そして午後8時ごろ、集落の外れで合流した3体のパーントゥが闇の中に消え去ると、終了を告げるサイレンが警報解除のごとく鳴り響いた。こうして、3時間にわたり日本の南端で繰り広げられた奇妙な鬼ごっこは幕を閉じた。

終わりに

私は不運にも、直接パーントゥを見ることは出来なかったが、影市の詳細なレポートを見て俄然この目で見てみたいと気持ちが湧いてきた。泥だらけにされてしまうのには抵抗があるが、厄除けのためであれば仕方ない。むしろそれより、列島には無い、南の島ならではの神様、祭りの様式、を感じられるのは貴重である。この希少な伝統行事が風化する前に、ぜひ一度は祭りの日に訪れてみたいものである。

★このブログのライター:Ricky★

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出典

・宮古島の奇祭パーントゥ・プナハ訪問! 泥まみれの来訪神と遭遇/奇祭巡り・影市マオ

宮古島の奇祭パーントゥ・プナハ訪問! 泥まみれの来訪神と遭遇/奇祭巡り・影市マオ|webムー 世界の謎と不思議のニュース&考察コラム

・パーントゥ Wikipedia

パーントゥ - Wikipedia
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